「・・・はい、わかりました。もしそう聞かれたらそうします。失礼します」
キョーコは電話を切って、机の上に置いた。
数度扉をたたく音がして、扉が開く。
「ごめん、待たせて」
「いいえ?」
ラブミー部室に入ると、蓮は扉を閉めて、少し遠慮をしたように声をかけた。
何か珍しい程ナーバスで落ち込んだような蓮の様子にすぐに気づいたキョーコは、和ませるように、にこり、と笑いかけた。
「長かったですね、何か・・・社長さんと、ありましたか・・・?」
「・・・そうだね、あとで話をするよ。このあとどうする?少し、出かけない?」
「え・・・?」
「いい天気だし何か綺麗な景色でも見に行こう。写真に残したくなるような、絵に描きたくなるような場所に」
「あの・・・」
「佐保は明日も殆ど台詞無いよね、他の仕事の台詞まだ入ってない?」
「いいえ・・・」
キョーコは、蓮と予定外のデート・・・と思ってしまい、いいえ、お供、と心の中で言い直した。
「オレと、行くの、嫌かな。ごめん、オレが今日、今、一緒に行きたいと思った事と、君が行きたいかはまた別だと思うんだけど・・・でも、よかったら、付き合ってほしい」
社長に言われた言葉の数々が、蓮の心にチクチクと刺さっている。
キョーコの気持ちを聞けと言った。
「・・・あの・・・嫌では、ありません、よ?」
キョーコが遠慮がちに、そっと上目遣いに――蓮には恐ろしく可愛らしく見える――蓮の様子を伺いながらそう言うと、蓮は、嬉しくて、思わず最大級の笑顔をした。
キョーコは、急に蓮の最大級の笑顔を正面から受け止めなければならなくなって、思考が停止した。蓮に向けて照れて歪みそうになる顔を、どう見せずに止めておくかについて瞬時に考えていた。頬が引きつっているような気がする。
――だって、敦賀蓮がその笑顔を見せるのは・・・。
「・・・よかった・・・」
蓮は心底そう言った。
「あの・・・」
「車の中で、話そう」
「でも、あの、敦賀さん、見つかっちゃいませんか?」
世間一般の人に蓮が見つかると大騒ぎになると思った。
そこに自分がいたら。
「大丈夫だよ、一度も見つかったこと無い」
蓮はバッグの中から帽子とサングラスを出して見せた。
「え、それだけで?」
「ええ、これだけで」
蓮は、任せなさい、という自信満々の顔をした。
だからキョーコはおかしそうに笑った。
「知りませんよ?」
「大丈夫です、お嬢さん」
蓮はキョーコの腕を取って、立たせる。
「いろいろな絵を描くための写真を撮りに行きませんか、佐保さん」
「はい、英嗣さん」
英嗣の手はいつも佐保のためにある。
そんな事を、嬉しく思ってしまいながら。
キョーコは蓮の手を取った。
*****
「申し訳ないんだけど、先に車に乗っていてくれる?社さんに一度電話入れるから」
「あ、はい」
エンジンをかけた車内に、キョーコは乗り込む。
何事か分らないけれど、あえてキョーコに聞かれないように話すというのは、蓮の話は、キョーコに聞かれては困る話か、又は、電話だからという理由で気を遣ったのだろうと思った。
キョーコが乗り込んだのを確認して、蓮は少し場所を移動してから社に電話をかけた。
「どうしたの?今日は休みだよね?」
と社が珍しそうに言った。
しかも今日はキョーコと一日一緒にいると言ったのだから、楽しく時間を過ごしているに違いないと社は非常に油断をして、のんびりと部屋で過ごしていた。
もう少ししたら買い物にでも出ようかと着替えて準備をしていた所だった。
「あの、今夜、行ってもいいですか」
「え?俺んち?来るの?」
「ええ」
「別にいいけど、一体改まって何の話?俺、口説かれるの?それとも、別れを告げられるの?」
「は?」
「なんだびっくりしたあ、俺、お前にマネージャー変えてくれとか言われるのかと」
「いえ、社長から社さんに話を聞いて来いと言われて・・・できれば夜、お会いしたいのですが」
「明日だって会うのに、改まって今夜でなければならない理由が分からないし、社長が社長じゃなく俺に聞けというような話なんて一体何の話なの」
「・・・それは、今夜話します」
蓮が言いにくそうに言ったから、社は何かあると察して、わかったよ、とだけ答えた。
「多分、夜九時過ぎになると思うんですけどいいですか?」
「別に何時でも。今日はキョーコちゃんと一緒なんだろ、一日。もっと遅くなったらそれはそれで連絡くれれば。いつでもいいよ」
社は面白がってそう言っているだけだけれども、少しナーバスな蓮は、その声には乗らずに、向かう前に連絡する旨だけ伝えた。そんな様子に社はやっぱり何かが変だと感じた。
*****
「どこ行こうかな、描きたい所ってどこ?」
そんな事を言いながら蓮はスマートフォンの首都圏の観光特集を開いた。
「秋なので紅葉とか、滝とか?ですか?」
「うーん、一番に出てくるのはテーマパークばかりで・・・」
「あ!パンダ!パンダ見に行きません?」
「上野公園?」
「英嗣と佐保ですし。不忍池も見たいです!佐保がいつもどんな風景を見ているのか見たい」
「そうだね、そうしようか。そろそろ公園の紅葉も進んでいるかもしれない」
「きっと、二人で時々写生しに行ったり、歩きに行くんだと思います。ちょうど今、上野公園の中の美術館でムンク展もやっていますから美術館も寄れますよ」
「本物をきちんと見るっていうのもいいね」
蓮は帽子とサングラスを掛けてみて、キョーコを見る。
「どう?」
「似合います」
「オレだとわからない?」
「えっあっ、あの、はい」
キョーコは素で褒めてしまって、改めて自分で質問の意図が違っていた事に気づいて、顔を赤くした。
その言葉を聞いて、蓮は一度両方を外して置いた。
「私は誰にも気づかれないと思うので問題ありません」
すると蓮は、「んー」と言って、もう一度携帯電話を手にした。
幾つかページを見て、よし決めた、と言った。
「どう、されましたか?」
「いや、佐保なら着物がいいと思って。当日でも上野周辺でレンタルさせて貰えるところを探したら着付けもヘアセットもしてくれるしバッグも貸してもらえるみたいだから。どう?佐保さん」
「・・・あの」
「遠慮しない」
「じゃあ、お願いします」
「よし決定。あとは、画材屋さん・・・・上野の駅前にあるみたいだね。途中で寄って買って行こう」
蓮はにっこり、と、笑って、すっぽりと帽子をかぶり、サングラスをかけた。
*****
車内で話そう、と、言ったのに、蓮は殆ど口を開かなかった。だから、キョーコは佐保として、ただ、静かに車の中に座っていた。佐保は英嗣のそばにいられればそれでいい。
蓮は美容室にキョーコを降ろして、近くの駐車場を指さして、停めて車で待っているから終わったら呼んで、と言った。
美容室でメイクを施され、黒い髪のウイッグを借りた。自分でもできるけれど和服をプロがものすごい速さで着付けてくれて、あっという間に佐保が出来上がった。
「いいですね、彼とデートですか?」
と、着付けを手伝った店員が聞いたから、キョーコは苦笑いで、「いえそういう訳では」、とだけ答えた。
「すっごい素敵な彼ですねえ、さっき入ってくる時に少し見ました」
ちらりと一瞬車内を見た姿が印象に残っていたらしい。
「そう、ですかね」
佐保なら、にっこりと笑いながら、でも、心の中で、嫉妬する。
英嗣と佐保は長い間一緒にいるから、多分基本的によく似ている。英嗣はそれを態度に出すだけで、佐保は佐保で、本当は英嗣に、誰にも触れて欲しくはない。
原作の中でも佐保はその辺を気にして自分はおかしいのかと、その事を誰かに相談して、「それは恋しているからでしょう。誰でもそう思いますよ」と言われている。
キョーコは促されて、支払いをしようとすると、
「既にお支払い頂きました」
と蓮が知らない間に済ませたことを言った。
「すごく素敵な彼氏さんですね、羨ましいです。お客様もお綺麗ですし。素敵なお二人でうらやましいです」
と、会計の女性もそう言った。
たった一瞬の時間だけ蓮に触れただけなのに。褒められて嬉しいのに嬉しくない、戸惑う気持ちは、本当に佐保と同じだと思う。
ただ、にこり、と、佐保のようにしとやかに笑顔を返して返事をした。
――彼じゃないもの
と、一緒に出掛けられても、嬉しいような嬉しくないような事をつい思ってしまう。
レンタルの返却方法と時間を聞いてキョーコは店を出た。
「お待たせしました」
すぐ近くに停めていた蓮に姿を見せると、蓮はドアを開けて外に出てきた。
「似合うね。佐保だ」
「ありがとうございました、なんか、あの、お支払いまでしていただいてしまって」
「いいえ、どういたしまして」
蓮は車の中から買った画材を取り出して、
「ここから歩いて行こう」
とキョーコを促した。
和服姿だとどうしても歩みが遅くなる。それに蓮は合わせて歩いた。
佐保は凛とした性格だから、視線はまっすぐに、姿勢は正しく、美しく。
でもそうすると、街中ですれ違う女性たちの視線は、当然ながら、両者に注がれる。
佐保は絵から飛び出したような日本人としての理想的な雰囲気があるし、もちろん、英嗣も歩く世界モデル。目を引く。
外国人観光客のカップルが、和服の佐保を見て、写真を一緒に撮ってくれるよう話しかけてきた。
「大丈夫でしょうか?」
「いいんじゃない?」
一応確認したキョーコに蓮はそう言って、蓮が、オレが撮りますよ、と、英語で答えた。英語が通じた事を喜んだのか、彼らは上機嫌だった。
英嗣が撮る写真の中に写る佐保の笑顔とはどんなものだろう、そんな事を思って、キョーコは顔を作った。上品で、穏やかな、微笑み。
「うん、その顔かな」
と、蓮は分かったようにそう言った。
蓮はカップルの男の方に渡されたカメラを返して、握手をした。
彼らと別れると、蓮はキョーコの肩先に触れて、肩を数度手で払った。
「・・・触らないで欲しい」
写真を撮るために先ほどの男性が佐保の肩に腕を回して抱き寄せて撮ったことが、英嗣である蓮の感に触ったらしい。
どこか困った顔をした苦笑いのキョーコに、蓮は当然のように冷たい顔をして言った。
「触っていいのはオレだけ」
そう付け加えて、キョーコの手を取った。どきりとしたキョーコの気持ちなど、蓮にはわからないのかもしれない。凛とした姿で、手を繋いで、歩いた。
美術館を巡り、ムンク展で展示された「叫び」を見て「これだね」と蓮は笑った。
「英嗣さん、いつも、こればっかり」
「違う席には違う絵も描いているんだよ?」
「例えばどんなものを?」
「いや、葉っぱ、とか、パンダ、とか。佐保にはハートしか描かないけど」
「私も、パンダ、飲みたい・・・。英嗣さんが描くいろんな絵、見たい」
「・・・・・」
佐保がそう言うと、卓也に言われた時よりずっと、重みが増すような気がした。
「ラテアートの事?」
「もちろんそれもそうだし、絵も、私ばかり、描くから・・・」
「描きたいから描くんだ。心の入らない作品なんて、どんなに綺麗な絵でも、ただの紙切れに色を乗せたのと同じだ。そういえばあのダビンチでさえ、ずっと同じものを描き直し続けた結果あまり点数が無い」
蓮なのか英嗣なのか、珍しくきっぱりとそう言った。
ムンクは、途中からは風景画を描く事をやめて、殆ど自分の体の中から出てくるものを絵にしたと説明が書いてある。
だから、叫びが、「そうだよね」、と言ったように、思った。
2019.2.16